生きることへの歓び。其の一
〜体験した死の恐怖〜

気が付けば、私もとうに人生の折り返し地点を過ぎた年齢と成り、
思い返すともなく過去の日々を、胸に蘇らせる事が多く成りました。
誰の人生にもドラマがあるでしょうが、私の半生も、
それはそれは様々な出来事に彩られた六十有余年でした。

とくに一生を左右する、印象的というより衝撃的な事件が起きたのは、
私が高校三年生の夏でした。高校生活最後の夏、私は仲良しのクラスメートと
二人で静岡県の民宿に、三泊四日の予定で海水浴に出掛けました。
そこで、あのアクシデントに見舞われたのです。

初めて友人と旅行する嬉しさに、私は少々浮かれ気味でした。
親元から離れ事が出来たという解放感は言うに及ばず。
白浜の海も息をのむほど美しく、それは愉快な時間を過ごしていました。
しかし、旅も三日目に入った時の事です。

「ねぇ、美智子、そんなに遠くまで行ったら危ないよ!」
「平気、平気!私、泳ぎには自信あるんだから。向こうに見える島までだって行けるわ」
友人の言葉に耳を貸そうともせず、私はスイスイといい調子で沖の方まで泳いで
行こうとしていました。ところがその途中、急にこむら返りが起きたのです。

「ううっ、痛ーい!誰か、誰か助けてっ・・・」
目から火が出るほど痛くて、もう泳ぐどころではありませんでした。
溺れる、死んじゃう・・・周りには人影も見えず、私はただ恐怖に慄きました。

「ああーっ、も、もうダメっ。う、ううっぷ、うっお、おかあさんーん!」
だんだんと意識が朦朧としてきました。大分水を飲んだようです。
(もう、私はこのまま死んでしまうんだ)そう思ったとき、
後ろから誰かの手が私を掴んだような気がしました。

私の意識は、其処までで途切れてしまいました。
次に気付いたのは、浜辺の上でした。

「ここはどこ?私は誰?」まさにそんな状態で私は目覚めました。
フッと目を開けると、大勢の人が私を囲んで見守っていました。
しかも、口が塞がれていたのです。

「あっ、目が開いたわっ。大丈夫、美智子、生きてるのねっ」
友人の叫ぶ声が聞こえて、初めて私は助かった事を知りました。
どうやら、誰かが人工呼吸をしてくれていたようでした。その人が顔を上げました。
「もう大丈夫だよ。一時はどうなるかと思ったけど・・・」

端正な顔の輪郭が、ボンヤリと見えました。声の主は若い男のようでした。
「美智子、あんた、死に掛けたんだよぅ。心臓が止まっていたんだから!
 この人が美智子を助けてくれたのよ。海から掬い上げてくれて、
 人工呼吸までしてくれたのよ」

「いいよ、いいよ。あっ救急車がきたよ。一応病院へ行った方がいい」
と、命の恩人・中谷聡が言いました。
彼は友人と一緒に病院まで付き添ってくれたのです。
検査の結果は良好で、何の異常もありませんでした。

「敏速な応急処置のお蔭ですよ。こちらに感謝しなければなりませんな」
医者に言われるまでもなく、私は中谷に言葉にならないくらいの感謝を・・・
いいえ、正直言えば、ひと目見たときから熱い思いを感じていたのです。

「お礼なんていいんだよ。オレは小さい時から海を庭みたいにして育ってきた。
 だから、泳ぎだって魚に負けないくらい巧いし、ここら辺の者なら誰だって
 人工呼吸なんかお手のもんさ。べっに特別な事をしたわけじゃないんだよ」

サラリと言ってのけた聡は素晴らしくカッコよく、私の心を離さずにはおきませんでした。
それでなくても、彼はモロに私のタイプでした。
海の男らしくスラッと締まった肉体に、赤銅色に灼けた肌。
キリリと整った顔に白い歯という容貌は、
彼が命の恩人でなくても乙女心を惹きつけたことでしょう。

「いいえ、ぜひ何かお礼をしなくては気が済みません」
「なら、明日いっしょにドライブに行かないか?
 このあいだ、ようやく新車を手に入れたんだ。
 どうせなら、可愛い女の子を乗せて、初ドライブに行きたいと思ってたんだ」

嬉しいことに、彼の方も私の事を気に入ってくれたようでした。
こうして私達は映画並に劇的な出会いを果たし、交際を始めたのです。
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