セックスレス夫婦の今と昔。其の七
〜女の幸福って何だろう?〜

田代との関係も、結局一週間ほどでおわりました。短くも激しく燃えた一週間でした。
田代は多くのものを私に残してくれました。

「オッパイがなんぼのもんだよ。女将さん。命には代えられやしないさ。
 オッパイが片一方しか無くなったって、あんたはずっとオレの観音さまだよ。
 手術は頑張れよ。オレも蔭ながら成功を祈っているからな・・・達者に暮らせよ」
この言葉がどれ程心の支えになったかしれません。胸に染み入る台詞を置き土産に、
田代は次の飯場へと移って行きました。

田代が去った数日後、私は手術を受けました。
手術が終わって左の乳房に手を当てた時のショツクと悲しみを、私は二十年経った
今でも鮮明に覚えています。裸に成って見ると、其処には豊かな肉の丘の代わりに、
無残な傷跡が痛々しいほど刻まれていました。

暫らくは青い海の底に沈んだような心境でしたが、身体が回復すると、
私はまた紅葉湯の仕事に精を出しはじめました。身を粉にして働く事だけが、
精神的に回復する一番の特効薬だったのです。周りの者がとめるのも聞かずに
私はは以前のように働きました。全ては私自身が選んだ人生なのだ・・・
それは、死を賭けた大手術を経て私が実感たことでした。

元はと言えば、夫に愛されていないと承知していながら、押し掛け女房の様にして
主婦になった結婚なのです。夫ばかりを恨んで生きていっても仕方がないでしょう。

(要は残りの人生なのだ。
 折角救って貰った命を無駄に過ごしては、バチが当るではないか)
そんな風に達観できる様に成ったのも、手術と田代のお蔭かも知れません。

此の儘夫に振り向いて貰えなくとも構わないわ・・・と一種、
開き直りにも似た気持ちに成った時でした。ようやく、結婚三十年も経って
夫が私の元に帰って来てくれました。

夫の勤め先の健康診断で血液中のヘモグロビンの値が低く貧血状態だ、
腹部の何処かに出血しているのではないか、精密検査をした方が良いと言われたのです。
早速、市大病院で腹部内視鏡検査をして貰った結果。

大腸がんの一種“S字結腸がん”で手術が必要と診断されたのです。
途端に其れまでの強気な夫の面影は影を潜め、極端に落ち込んでしまい、
病院での説明に私も一緒に行って呉と言うのです。私の時にはあんなに冷たかったのに・・・

市大病院の消化器外科の先生の話は、
『肛門から近い所にS字結腸と言うのがあり、場所に寄っては「人口肛門」を着ける様に
成るかも知れない、多分大丈夫だろうが、他への転移も調べるから、もう少し詳しい
検査が必要です。進行性のガンではないので順番待ちの人も居るから、
手術は2、3ヶ月先に成る』とのことでした。
その間に各種の検査と心肺機能の強化訓練等をして置いて下さいとの事でした。

病気が判ると若い愛人は「病人の世話は真っ平よ、奥さんに世話して貰いなさい」
といとも簡単に別れて行ってしまったそうです。
愛人に去られ、手術も二ヶ月先と決まって、私と夫との「夜の生活と会話」が戻って来ました。

驚いた事に、夫は私の浮気を知っていたようでした。
それでもずっと黙っていたのです。もちろん自分のすねに傷持つ身なので、
私を責められなかったのでしょうが、それでも最後まで一言も私の事を
非難しませんでした。

紅葉湯の営業時間は午後三時〜午後の十一時までです。
昔は深夜の二時頃まで遣っていたのですが、客層が変わり水商売の女性が居なくなり
深夜まで遣る必要が無くなったのです。

客の居なくなった「露天風呂」に二人で入る事も度々に成りました。
そしいて風呂場の掃除が終わった頃に「飲みに行こうか」等と言ってくれて、
遅くまで遣っているスナック等にも飲みに行くように成りました。

余りの変り様に、私は一瞬不吉な事を考えてしまいました。
手術が終わった後、夫は死んで仕舞うのではないか、
死期を悟った夫は、是までの詫びの積りで急に優しく成ったのではないか?
今までが今までだっただけに、詰まらぬ事を考えてしまうほどの夫の変り様でした。

しかし、其れは全て取り越し苦労でした。ガンの転移もなく、手術は無事終わりました。
現在、私は定年退職した夫と共に紅葉湯を運営しています。

大変な紆余曲折を経た後、やっと私達はごく普通の夫婦に成れたのです。
左乳房のない女房とお腹に大きな傷の有る夫とのセックスも週一ぐらいの
ペースですが確り遣っています。長い長い道のりでした。
我慢と裏切り、涙の半生だったかもしれません。しかし世の中。
こんな人生があってもいいのではないかと思う今日この頃です。
END
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