妹にまで矛先を向けた極道兄。其の一
 
世の中を自由気儘に生きている人は案外多いようで、
縛られるのを嫌う自由業の方などに多く見受けられるようだ。
だが人は千差万別みんな違うように性癖もおのずから違っていて
女狂いに精を出す人も居る。行きつく果ては看病してもらった
妹にまで手をだしたその結果・・・。

◇自業自得◇

若い頃から自由気儘に生きるのが好きで、とても会社勤めなどは性に合わず、
ちょつと絵心があったものですから、貧乏するのは分かっていても
画家の道を歩み始めました。今だに雑誌に挿絵を載せたり、
似顔絵を描いたり、趣味のグループに手ほどきをしたりして、
何とか暮らしている程度の売れない画家であります。

結婚は二十四歳の時であります。
家内は当時、商家のお嬢さんで、箱入り娘であったので、
私のような社会の習俗を無視した生き方をしている者に魅力を感じたのしょう。
夢中になりまして、親の猛反対を押して私と結婚すると言い出したのです。

家内の親は烈火の如く怒りました。無理もありません。
おまえの様な貧乏画家に手塩にかけて大事に育てた娘をやれるか。
純情な娘をよくもたぶらかしたな、と挨拶に行った私を殴りつけました。

ところが反対されるほど燃え上がるのが、世間知らずの箱入り娘の
恋心というものなのでしょう。家内は怒り狂う親を捨てて、
私の所に嫁いで来たのであります。

新婚であった一年間は、誰にも邪魔されず楽しい蜜月を過ごしました。
貧乏でも誠に楽しい日々でした。しかし、長男が生まれ赤ん坊の泣き声が
うるさくなると、やはり家庭生活に向かない私の生来の怠け癖、放蕩癖が
正体を現し始めたのです。

こうして私は酒と女にだらしない生活を送るようになりました。
赤ん坊のミルク代を酒に変え、関係を持った女の所を泊まり歩くようにもなりました。
それでも家内はそんな私にジッと堪え、内職をして子供を育てていました。
その苦しさから、後には新興宗教にもすがるようになりました。
しかし、家内はどんなに苦しくても、実家の親に泣きついたりはしませんでした。
彼女なりに意地があったのでしょう。やっと勘当を解かれたのは、ずっと後、
父親が亡くなる寸前だったのであります。

家内は生活にやつれ果てた姿に成りましたが、そんな彼女を横目で見ながら
私は何時までも女遊びを辞めませんでした。

三十代の中頃までは、殆どの相手が水商売の女相手でしたが、年と共に
好みも変わり、三十代後半からは専ら人妻に手を付ける様に成りました。
一盗二婢なんとかと言うやつです。

絵が好きで趣味のグループなんかに来ている人妻で、これはと目をつけたら、
描き方を教える振りをして言葉巧みに口説くのであります。
面白いほど言いなりになりました。人妻と言うのは性に習熟しておるだけあって、
あつかましいだけで乙女のような純潔な心は持ち合わせておりません。
妊娠の心配さえなければ、男を受け入れたくてウズウズしております。

世間の眼や、道徳倫理に邪魔されて、何とか間違いを犯さないでおるのですが、
それだけに不倫というのは刺激に満ちていて、一度犯してしまうと、
まるでガソリンを染み込ませた布のように激しく燃え上がってしまうようです。

私とても、彼女たちの亭主に内緒で、亭主がじっくり時間をかけて開発した
性戯を施した熟れきった肉体を抱くのは、実に楽しいものでありました。
人妻と言うのは、一人一人が性感も性戯も違うものです。
それは未婚の女よりも顕著に現れます。

何処を如何押し、撫でたらより淫らな声で喘ぐか、尺八をさせたら、如何言った
舐めしゃぶり方をするか、それらの一つ一つに、顔も知らない相手の亭主の
存在があるようで、私は人妻を抱く喜びの中に、何時もこの女の亭主はどんな
タイプなのかと想像する楽しさを見出すようになって居りました。

もう私の女遊びは止まりませんでした。
もはや世間に認められるような絵を描きたいと言う情熱は失せ、
其の分だけ酒にも溺れるようになりました。
挿絵や似顔絵の金は殆ど酒代に回し、家内には一銭たりとも渡さなくなりました。
私はとんでもないぐうたら亭主に成り果ててしまったのです。
(それまでは、少しは生活費を家内に渡しておりました)

酒代が足りない時は、関係しておる人妻に無心を致しました。
つまり、男としても半端者になり下がったと言う訳です。

そんな私にとうとう家内は愛想尽かしをして、
十年余り前に長男を連れて出て行ってしまいました。
今もって別居状態を続けていて、成長した息子も物心がつく頃から
私を軽蔑していたので、音信一つもありません。離婚を言い出さないのは、
家内の信仰している宗教では離婚が許されていない、ただその理由だけであります。

私は家内が出て行った頃は、身軽に成ったとセイセイしましたが、ところが、
長年の無茶な生活が祟って、私は体を壊してしまったのです。
自業自得といえばそれまでですが、肺と肝臓を遣られてしまったのです。

暫く入院し、その後は自宅療養と言う事に成ってしまったのですが、
金は無い、看病してくれる家内はいないで、私はさすがに参ってしまいました。
そんな時に手を差し延べて呉れたのが妹の春江でした。
春江は山梨で実家を継いで洋品店をやっておりました。

当時四十五歳ですが、三年前に亭主を癌で無くし、
一人息子を東京の大学にやって、それは一生懸命働いておりました。

未亡人になってから、何度か再婚話もあったそうですが、
子供が社会人になるまではと、見向きもしなかったそうです。

私と妹はたった二人きりの“兄と妹”で本来なら私が実家を
継がなければ成らないのですが、先に述べた様に私は田舎生活を嫌って
家を飛び出し、妹が婿さんを貰って実家を継いでいたのです。
父母は二人とも他界しておりますので、妹曰く、
「此処の財産の半分はお兄ちゃんのモノなんだから、遠慮する事は無いのよ、
 ゆつくり養生して頂戴」と言うのです。

私はそんな妹の好意に甘え、綺麗な空気を吸ってのんびり過ごし、
養生することが出来たのでありました。
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