はぐれ恋。其の二
◇奥の座敷で◇

そして今年の春寛子ママの亭主が、肝臓癌で亡くなったと聞いた。
人の死を喜ぶのは不謹慎だが、正直是で寛子ママを抱けるチャンスへ
一歩前進したと思えた。

そして夏の或る日、何時ものようにスナック『S』の扉を開けた。
客は誰もいずママとマスターがギターを弾いて、『新曲』の練習中だった。
私は暫く彼等の音楽を、チビリチビリと水割りを飲みながら聞いていた。
そして、ママが「何かリクエストがあればギター伴奏で歌って上げるわよ」
と言った。私は「最近の歌は分からないよ」と言うと。
マスターが「古い歌でも良いですよ」と言う。
私は『さすらいの唄』歌えるかい?」と、自分の好きな大正時代に流行った
北原白秋の作詩になる古い流行歌を、多分若い彼等は知らないだろうと
思いながらリクエストすると、

「随分、古い唄を知ってるんですね、其の唄、俺の親父が好きで、
 子供の頃からよく聞かされていましたよ」
と、マスターは早速イントロを弾き始めた。
「私も知ってるわ」よと
「いこかもどろかオーロラの下を、ロシアは北国果て知らず・・・」
と、惚れ惚れするような美しい澄んだ声で歌い始めた。
それが終わると、「湯の町エレジー」とか「湖畔の宿」と間をおかずに歌い、
古い歌の好きな私の為にカラオケには無い様な歌を何曲も歌ってくれた。

そうなると私の方も何時に無くグラスを重ねてしまって、つい度を過ごした感じで、
途中で気分が悪くなってきて、奥の部屋で酔いを覚ますことになった。
客も居なかったからだろうが、寛子ママは私に付き添って親切に介抱
してくれたばかりか、
「ちょつと休んで気分が良くなったら私が送っていくから、
 これを飲んで横になると良いわ」
蒲団を敷き終えると、そう言って常備薬の箱から白い錠剤を飲ませ、
横になった私の額へ濡れタオルを当てたりして、甲斐甲斐しく世話を
してくれたのである。

それでカウンターへ戻るかと思っていると、ママはその後も部屋に居残って、
私の枕元で静かに雑誌か何かを読んでいた。

私は一時間ほどウトウトとまどろんで、何かの物音にふと目を覚ますと、
気分は大分落ち着いて、スッキリしてきた。
「ああ、スッキリした気分だ。ママ、ずっと此処に居てくれたのか?」
「そうよ、お客さんも来なかったから、早目にカンバンにしたわ。
 マスターがいま帰った処よ。

そう言ってから、ママは急にはにかんだような表情をしたかと思うと、
「私、小学生の頃から“うえちゃん”の事知ってるのよ」
と、意外な事を話し始めた。
「えぇ?嘘だろう?」
「うえちゃんは覚えて居ないだろうけど、私、小学生のころアンタの家の近所に
 住んでたことあるのよ・・・」

寛子ママの話によると、彼女が高校へ進学するまで我が町内の隣町内に
住んでいて、当時“薬局”をやっていた我が家に、薬の空き瓶とか空き箱を
貰いに来ては、応対に出ていた当時高校生だった私と何度か
顔をあわせ、淡い感傷を抱いていたと言うのだった。

「あの頃とちっとも変わってないので、すぐに判ったわ」

絶えず笑顔でそんな事を話す彼女の顔を見ていると、つい此方もそんな事も
あったかなぁと納得してしまう。
そして私の身体の中に眠っていた助平虫が頭を擡げて来て、
チョツト手を出してみようかなと思い始める。

「それは悪いことをしたなぁ。男は勃って来るから直ぐ判るけど、
 女は濡れてるかどうか触って見ないと判らんからなぁ」
「まあ、イヤらしい。急に何をいいだすのやら」
「イヤ、ママが俺に好意を持って呉れてたのを気付かず悪かったという意味だよ」
「・・・」
「それはそうと、今夜はママにお世話になったので、何かお礼をするよ、
 ママ、ご飯は未だだろう?」
「まぁ、世話掛けたなんて水臭い、でも、ご馳走してくれるんだったら、
 遠慮はしないわよ、何処かに連れてって」
と、言うと早速紅を引き直し夏らしい浴衣に着換え始めた。

「この近くに私の知り合いの店があるから、其処へ案内するわ」
私が頷くと寛子ママは再び口許を綻ばせて、
「今は、お父さんと同じ仕事をやっているの?」
「いや、店は妹が継いでるよ。俺は大学の化学を専攻して薬屋を継ぐ積りだったが、
 如何いう訳がサラリーマンに成ってしまったよ」
「それで奥さんと別れて今は一人なんでしょう。私と同じね、貴方の奥さんにしてくれる?」
「何言ってるの、今まで散々モーション掛けてたのに、無視してきたじゃないか」
「あれはね、貴方に迷惑掛けると悪いと思ったからよ。
 死んだ亭主は乱暴者でね、今までに何度も傷害事件を起こしてるの。
 私が浮気でもしょうものなら、刃物を持ち出して迫ってくるわ」
「だってマスターとは男と女の関係に成っていたんだろう」
「それはね、亭主のチンポが立たなくなってから、仕方無しにマスターとだけなら、
 と亭主公認の性欲処理だったのよ」

暫くそんな雑談を交わし着換えが終わると、
「何なら私が車の運転するから、そろそろ出かけましょうか?」
と、彼女は立ち上がった。
駐車場に停めてあった私の車に乗り込み、ママに運転を任せて、
繁華街の裏通りに出た。

寛子ママに案内されて、こざっぱりした寿司屋の屋敷へ上がると、ママは、
「ビール、飲んでもイイ?」と、私の顔を覗き込むようにして訊ね、頷き返すと、
彼女は銘柄を指定してビールの注文をした。

其の店で一時間ほど、寛子(二人だけのときは寛子と呼んでと言う彼女だった)
と二人で鮮魚の造りや寿司を摘みながら寛子はビールを飲んでいたが、
私は次の移動の為にビールは控えた。

寛子の目許が薄紅色に染まって来るのと反対に、私の方はすっかり酔いが醒めて来た。
「なあ、寛子、これから、何処か二人だけに成れるところに付き合ってくれるか?」
「何処かって言っても、お腹は膨れたし、行き先は一つしかないわね」
「そうだよ、昔の頃に戻って胸時めかせる様なことしようよ」
寛子は一寸目を閉じて、考える仕種をしてから、
「さあ、行くべきか、行かざるべきか」
と、言いながら、そっと私の肩へ頬を乗せてきた。
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