新聞配達の女。其の一
〜パチンコ土産〜

「やあ、おはよう!」
「あ、おはようございます。また起こしてしまいましたか?」
「なんの・・・私はもう年寄りだから朝は何時も五時前には起きていますよ。
 あなたも毎朝のことで大変だね、頑張ってくださいよ」

私としては、挨拶がわりに毎朝そんな事を言っている積りなのだが、
髪を後ろで束ねた色の浅黒い女は、この朝も嬉しそうな顔をした。

「ありがとうございます!」
朝霧の中に、元気のいい声が返ってきた。この女性と、朝の挨拶を
交わすように成ってから、私の人生に生きる張り合いが戻って来たのだ。

女性の名前は中山輝子と言った。新聞配達をしていて、年齢は44歳。
私とは20歳も離れている。二人の子供の母親だが、事情が有って亭主は居ない。

新聞が毎朝五時十五分頃、郵便受けに入れられるのはずっと前から知ってはいたが、
其れを配達しているのが女性だったと気付いたのはつい半年前の事だった。

商売の電気工事の仕事を息子達に引き継ぎ会長職という立場でタマに事務所に
顔を出すだけで専ら趣味の花弄りと詩作に一日を紛らせる毎日だった。

其の日、私は夜中の三時に目が覚めて、寝付かれないままパソコンの電源を入れて
メールのチェックやウエブ検索したりして時間を潰していた。妻には五年前に先立たれて
いるので家には誰も居ない。パソコンにも飽きて表に出て見た。四時頃だっただろうか。
外はまだ夜の気配が濃かったが、近所の小さな公園にまで早足に歩いていった。
そこで昔習ったことがあるラジオ体操の真似事をしてみると、意外に気が晴れた。

心も肉体も清々して帰って来たのが、五時過ぎのことだった。久し振りに晴れやかな
顔で家に入ろうとしたら、後ろから声を掛けられた。
「おはようございまーす!」

気分が良かった私は、振り返る前に「おはようございます」と、
久し振りで気持ちのいい挨拶を口にしていた。
「ああ、新聞屋さん、毎朝ご苦労さま」
浅黒い肌の色をした女は、嬉しそうに笑顔を見せると、
「朝のお散歩ですか、お元気ですね」
「なーに散歩というほどでもないよ」
何処かで犬の吠える声がした。

そして、その鳴き声を耳にした途端に、私はあることを思いついたのである。
「あんた、チョコレートは食べますか?」
すでに立ち去りかけようとしていた女は「はっ?」という顔をして私を見た。
その目は未だ和やかに笑っていた。

「暇なもんだからね、昨日パチンコをしたのさ。そしたら少し玉が出てね」
そんな所には、極偶にしか行かない私は、店員に玉を如何するかと問われた際、
私は偶々目に付いたチョコレートを指差していたのだった。

「荷物になるもんじゃないから、持って行きなさい。わたしは食わないんだ」
厚い文庫本ほどの包みを握らせると、そう言って女の背中を押した。
「頑張ってな」
「は、はい、ありがとうございます」
女の元気のいい声が帰ってきた時には、私もほっとしたものである。

私が毎朝五時前に起きて、彼女を待つように成ったのはそれからだ。
諺に早起きは三文の得と言うが、私の人生は後に、
この早起きによってバラ色になるのである。

「やあ、おはよう、ご苦労さま」
「あ、杉田さん、おはようございます。昨日はチョコレートをありがとうございました」
女が二、三歩近寄ってきた。その顔は前日よりも若やいで見えた。
吐く息が白い。たまたまそれが私の顔に当たった。

「す、すみません」
はっとして女は恐縮したが、私はそれを深呼吸するようにして吸い込んだ。
「なんの、貴女の元気に触れると私も若返りそうだよ、ワハハハ」
それは私にとってはとっても、久し振りの笑い声だった。

「チョコレートを貰って帰ったら娘達が喜びましてね」
「ほう、そうでしたか。娘さんがいるんですか」
娘がいると聞いて、てっきり私は亭主も居るに違いないと思った。
少し気落ちがしたが、この年代だったら当然のことだと思いなおして、微笑みを返した。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「それじゃ、またパチンコに行って取ってきますからね」
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