七回忌法要の夜。其の二
〜限界のセックス〜

「陽ちゃん。あの頃は楽しかったわ」
(死を迎えようとしている姉は、常軌を逸しているのだろうか?)
彼女は下から私に抱き付き、
「陽ちゃん、あたしを抱いてっ」か細い声で言った。
「姉ちゃん!」
(何を考えているんだ!姉さんは狂ってしまったのか)
私は絶句してしまった。

「おねがい、陽ちゃん、姉ちゃんの最後のお願いを聞いて」
佳代は私の手を掛け布団の下に引っ張りこみ、
寝間着の上から胸元に押し付けた。張りを失った乳房の感触が
掌に伝わって来ると、私は慌てて手を引こうとした。
しかし彼女は最後の力をふり絞るかのように、強い力で引き止めた。

「姉ちゃんっ・・・」
「陽ちゃん、聞いて。もう一度だけ愛して」
「でも、姉ちゃんは病気なんだから」
「だから、陽ちゃんにお願いしているの」

揉み合う様にしているうちに、私の中に姉の最後の望みを聞いてやろう、
という気持ちが沸いてきた。
もし拒絶したら一生、悔いが残るかもしれない、と思った。

「判った、姉ちゃん。でも大丈夫なの?」
看護婦や彼女の知り合い客などが入ってきたら、と考えると、
恐怖にも似た不安が突き上げてきた。
「消灯は九時。夫や息子達は今夜はもう来ないわ。陽ちゃん、お乳吸ってっ」

病院内のスピーカーから見舞い客への退場を促すアナンスが聞こえてきた。
姉の佳代は枕元のスイッチを操作して、室内灯を消した。
カーテンの端から夜の闇が射し込み、不気味な雰囲気を作り出した。
私は背筋にゾクゾクっとしたものを感じて、犯罪でも犯しているような気分になった。

佳代が掛け布団を脇にめくり上げ、寝間着の細紐を解き、体を露にした。
室内は闇に包まれていて彼女の体は陰の様であった。

二度の手術で胸から腹部に傷痕の盛り上がりが有る筈だが、それは見えなかった。
張りを失い、肉の崩れを起こしている姉の乳房に顔を伏せ、
乳首を舌先で転がすように嘗め回してから、口に含んだ柔らかく吸い上げた。

懐かしい姉の匂いが、私の欲情を煽った。が、股間のものは全く勃起しなかった。

「陽ちゃん、姉ちゃん気持いいわ・・・」
佳代は肉の快感には見舞われていないようだが、
精神的な快感は十分に得ている感じだった。
彼女は私の頭に手を当てて、髪の毛を何度も撫でつけていた。

「陽ちゃん、下の方も愛して」
佳代は私の愛撫をうながすように、腰を突き上げて大きくくねらせた。
クンニリングスには抵抗があった。しかし彼女の最後の望みは聞いて遣らなければ成らない。
私は佳代の下腹部からパンティーを下ろし、彼女の股間に顔を伏せた。
そして乾いてカサカサしている性器に舌を繰り出してペロペロと舐めつけた。

性器が唾液でべとついてくる。皮の様な陰唇のビラビラが舌に絡み付いてくる感じだった。
「陽ちゃん、姉ちゃんのオマンコ美味しい?」
佳代はストレートな言葉を口にして、腰をくねらせている。
しかし呼吸には余り乱れはなく、肉体は無反応の様であった。
「美味しいよ。姉ちゃんのオマンコは最高だよ」

虚しい会話に涙が出てきて、私は何度も大声を上げて泣き出しそうになった。
「陽ちゃん、陽ちゃんのもの、姉ちゃんにしゃぶらせて」
佳代は私の肩に指先を食い込ませるようにして、引っ張った。

「もう止め様よ、体に悪いよ」
と言いつつも、恐怖とサスペンスと言ったら大袈裟だろうが、私もその場の異常な行為に
酔ってしまっていて、常軌を失っていたようだった。生きる望みを失ってしまっている、
姉の為に弟である私は、姉が望むならどんな事でもしてやろうとさえ思っていた。

私はベッドの脇に仁王立ちになると、ズボンを下ろし、横に成っている佳代の顔の前に
腰を突き出した。グニャリとしたペニスに佳代の手が絡みついてきた。
「これ陽ちゃんのものだね、嬉しいわ」
姉の佳代はか細い声で言うと、顔を乗り出す様にして舌を伸ばし、
わたしのペニスをチロチロと舐めつけた。しかし彼女は直ぐにむせ返り、
激しく咳き込んでしまった。

「姉ちゃん、大丈夫かい?」
これ以上はもう限界だと思った。私は慌てて佳代にパンティーを穿かせ、
寝間着の紐を結ぶと掛け布団を掛けてやった。

人間の生命力とは不思議なものだ。担当医からは『年を越すのは無理かも知れない』
と言われていた姉の容態は奇跡的に半年も持ち堪えて結局は翌年の四月まで
持ったのである。抗癌剤の効果か、はたまた私との情事に対する執念か、
年末には一時帰宅が許されて正月を自宅で過ごす事も出来た。

医者からは、
『好きな事を目一杯遣らせて遣って悔いのない生涯だったと言えるようにしてあげて欲しい』
と言われた。
姉の希望は「陽三と一緒に生まれ故郷の群馬の温泉に行きたい」と言うことだった。
私と姉の関係に何の疑いを持たない家族は、望郷の念と、姉弟との水入らずで過ごす
故郷での数日間への姉の思いを温かく認めてくれ、義兄からは、
「連れて行って遣ってくれ。宜しく頼む」とまで言われてしまった。

姉は昭和12年8月に、私は15年3月に、群馬の農家に生まれた。
私の父親は昭和20年初頭に赤紙召集され兵隊に駆りだされ、
母も軍需工場に徴用されていた。昭和20年8月15日、日本は敗れて終戦を迎えた。
しかしその年の暮れ、戦争の苦労が病と重なり、父親は亡くなってしまった。
その父親の後を追う様に、翌年の春、母親も病気で倒れ亡くなった。

姉と私は父親の兄の元(本家筋)に引き取られ、小学、中学と通わせて貰ったが、
姉は中学を卒業すると、直ぐに伯父の家を出て、近くの機屋の寮に入り働き始めた。

私も姉と同様に中学を卒業すると伯父の家を飛び出し、集団就職のような形で、
東京の電気部品の工場に勤めるようになった。
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