セックスレス夫婦の今と昔。其の一
〜愛情は芽生えるもの〜

人の一生を平均八十年とするならば、私の人生は八合目を過ぎた辺りかも知れません。
女六十、波乱の人生続きで、これまでさまざまな劇的出来事の連続でした。

私は昭和二十年、横浜の下町で生まれました。其処は横浜で唯一、
鳳神社が有る遊郭街の近くで、実家は雑貨屋兼タバコ屋を営んでいました。
私は女学校を卒業すると、実家の手伝いを始めたのです。其の頃の私は、
いまでは死語になったタバコ屋の典型的な看板娘でした。

年は二十歳、器量は十人並みでしたが、愛嬌豊かで話好きな私はかなり商売向き
だったのではないかと思います。
「のりちゃん(典子と言います)はホントにいい娘さんだね。可愛いし、働き者だ。
 のりちゃんみたいな娘が、ウチの敏明の嫁に成って呉れたらどんなに良いだろう」
私のファンは大勢いましたが、其の中でも“紅葉湯”の女将さんは、
タバコを買いに来る度にこう漏らしていました。紅葉湯は町内では只一軒の銭湯でした。

「ふふふ、いやだァ、おばさん。会う度にそんな事言って、恥かしいわ。
 敏明さんは、私の事なんかちっとも好きじゃないわよ」
飯塚敏明は女将さんの一人息子で、紅葉湯の跡取りでした。
当時の彼は横浜国立大学経済学部の四年生で、小さい時から頭が良く、
映画俳優にしてもおかしくない二枚目で、近所の娘達の憧れの的でした。
当の私も、小さい頃から敏明に熱を上げていた一人だったのです。

ですから、女将さんの言葉が内心嬉しくて堪りませんでした。
しかし、女将さんの希望が、まさか現実のものに成ろうとは思っても居ませんでした。
なぜなら、敏明が私に特別な感情を持っていないことは明らかだったからです。
いくら若かったとは言え、私にだって其の位の事は判りました。おまけに、敏明には
美人の恋人がいると言う噂がありました。けれど女将さんはとても強硬でした。

「大丈夫だよ、のりちゃん。この私が敏明を説得するからね。
 嫁にするには、のりちゃんみたいな女の子が最高なんだ。
 この私の眼鏡にかなったのりちゃんと結婚するのが、敏明にとっても、
 紅葉湯にとっても一番良い事なんだから・・・」

まさかとは思っていましたが、女将さんは本当に敏明を説き伏せてしまったのです。
それから間もなく、飯塚家から正式に結婚の申し入れがありました。
「ついに敏明がウンと言ったよ、のりちゃん!ああ、よかった。これで紅葉湯も安泰だよ。
 あの子ったら、銭湯なんか継ぐのはまっぴらだ、僕はサラリーマンになるんだから、
 なんて言ってるんだから。のりこちゃん、紅葉湯の将来はあんたに任せたからねっ」
「それは、もちろん・・・で、でもホントに敏明さんが私と?」

俄かには信じられませんでした。あの敏明が私と結婚することを承諾してくれた・・・
まるで夢のようで、天にも昇る心地でした。
しかし、結納の席で見せた敏明の表情は私とは正反対のものでした。
その顔はあたかもお通夜に出席しているかのようで沈痛な面持ちをして居りました。

其の顔を見て私は真実を悟りました。
敏明は喜んで私を妻に迎え様として居るのではない。母親である女将さんに
押し切られて、仕方なく私と結婚するのだ。私は望まれていない花嫁なのだ。
それは本当に、私の思い過ごしばかりではありませんでした。

「のりちゃん、僕のお嫁さんと言うより、紅葉湯と結婚するつもりでウチに来て欲しい」
非常にも結納の席で、私は真実を思い知らされたわけです。
彼は結納が終わった途端、私にそう宣言しました。
それでも私は、敏明との結婚を諦めようとは思いませんでした。
悲しいかな、私は心底敏明のことが好きだったのです。嫌われていると判っていても、
折角のチャンスを逃がす気にはなれませんでした。

押し掛け女房でもいい、敏明と添い遂げられるなら本望だ。
それに女将さんも言っていたではないか。
「愛情なんて、結婚してから芽生える揉んですよ。ええ、夫婦なんてそんなもんです」

結納の席で言い訳するように言っていた女将さんの言葉だけを支えに、
私は敏明と結婚したのです。しかし、現実はそんなに巧くは行きませんでした。
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